7月4日、当日中に営業再開! 復旧業者を受け入れ、災害復旧に尽力した「三浦屋温泉」

人吉城址を球磨川の対岸に望む場所に建つ「三浦屋温泉ビジネスホテル」。昭和15年に温泉施設としてスタートし、さらに、昭和47年には44室を擁するビジネスホテルを創業。地域の人たちだけでなく、数々の観光客を受け入れてきました。

「忘れもしない7月4日。夜が明けはじめた頃、窓の外を見ると、水位が上がった球磨川が…、どんどん水位が増し、周囲も慌ただしい。8時過ぎには浸水が始まりました」。ご主人の矢上さんが、撮影した写真と共に、当時の様子を教えてくださいました。

施設裏側の球磨川を指差し、当時を振り返る矢上さん
5時40分の球磨川。水位上昇の様子を見て、「おかしい、いつもと違う」と感じたそう
5時40分。慌ただしく消防や警察が行き交う
9時36分。浸水した施設の様子

川面から高い位置に建つ「三浦屋温泉ビジネスホテル」でさえつかってしまいます。この後、11時ごろから水が引きはじめ、空は青空に…。「不気味でした」と矢上さん。

 

1つ前の写真、後ろに写る黒い車のタイヤがすっぽりと水につかってしまったという
16時10分の施設前の様子。水が引き、片付けが始まった

 

敷地の1階部分が80センチほど、さらに半地下の温泉は全てつかってしまったため、水が引いた後は、ゴミ出し、泥出しに追われます。電気も水道も止まり、自宅のある上階に行くには全て階段。トイレも使えず、水を運んで使う状態です。

自らの施設の復旧で忙しい中、その日のうちに営業を再開した矢上さん。その理由を尋ねると、「災害復旧で訪れる業者や行政の方々の宿泊施設として再開しました。水は出ない、電気は通らない状態ですが、泊まる部屋は無事だったので使えます。いち早く再開するために、スタッフ総出で、ゴミ出し、パイプの泥出しなどを早急に行いました」と教えてくださいました。宿泊拠点が不足すると効率的な復旧作業が出来ない。そのため、発災直後に即座に受け入れ態勢を整えてくれる施設は、ありがたい存在です。

その後、1週間で水と電気、温泉が復旧。公衆浴場としての役割も持ち、生活の一部として温泉を利用する人が多い「三浦屋温泉」。12月下旬までは、地域の方々へ無料で温泉を開放し、多くの被災者の疲れを癒し続けました。

15時4分の球磨川。空は晴れてきているのに水位が下がらない
1カ月経っても本来の水位に戻らない球磨川
12月29日の様子。水位は戻ったが、本来の球磨川の姿に戻すためには、これらの石や泥を除去しないといけないそう
半地下にある温泉。全て浸水し、水が引くまで立ち入ることが出来なかった
窓から日が差し明るい浴室(8月1日撮影)

最後に、矢上さんに発災直後の状況を振り返っていただきました。

「自分自身で体験して災害復旧のスピードを決める大事なポイントとして考えたのは、『ゴミ出し・温泉のパイプの泥出し・大工さんの確保』を早急に行うことでした。当時は、災害ごみ置き場に捨てに行くだけで1回ごとに5〜7時間かかったほど、現場は混乱していました。すぐに4トントラックを3台依頼し、ご近所のゴミと共に処理してもらいました。この時に、人に捨ててもらうのがポイントです。未練があって、私が捨てるのをためらっているものでも、スタッフがどんどん処分してくれました(笑)。また、泥は固まるとコンクリートのようになってしまいます。こちらは、ボランティアの方々の手を借り、パイプの泥出しを急ぎました。最後に大工さん。日が経つにつれ、片付けから修理にフェーズが変わっていき、大工さん不足が起きてしまいます。お客さまを受け入れている当施設にとって修理は優先順位の高い作業だったため、大工さんの確保も急ぎました」。

河川敷に佇む矢上さん。後ろに見えるビルはホテルの建物

「こう話すと、私が何でもやったように聞こえますが、実はスタッフが考えて動いてくれたんです。日頃から支えてくれるスタッフに助けられました。うちは、スタッフの年齢の幅が広いのが特徴。だから、中には災害の経験者もいたんです。『経験者の知恵』と『若者の体力』。これらを活かし、抜群のチームワークで、復旧作業だけでなく、7月10日から炊き出しを開始していたんです。自宅が被災したスタッフもいたのに、感謝の気持ちでいっぱいです」。

生まれ育った土地だからこその絆。自分自身が被害を受けていなくても「自分ごと」として、助け合った「三浦屋温泉ビジネスホテル」のみなさん。日頃からの人と人のつながりの大切さを感じたインタビューでした。

 

(photo&text by 今村ゆきこ)

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