人吉が誇る老舗旅館が歩んだ日々。9月の一部再開に向けて

12月下旬の様子。年の瀬ということもあり作業は行われず、従業員も休暇に入り、静まりかえっていました

 

豪雨災害から間もなく8カ月。
「人吉旅館」は、今では復興のシンボルとして報じられ、誰もが老舗旅館の復活を待ちわびています。

取材にお邪魔したのは12月の下旬。新型コロナウイルス感染症、豪雨災害…怒涛の1年が終わろうとしていた頃。お宅を訪ねると、女将の堀尾里美さんは、年末のお屠蘇のレシピを調べているところでした。

「お正月をゆっくり過ごせるのは、嫁いできて初めてのことだから。せっかくだからお屠蘇を作ってみようと思って」。

無邪気な笑顔で、そう教えてくれた里美さん。旅館を営む者として、正月などのイベント時は、お客様が第一。家族でゆっくりと年を越すことは、これまでなかったそうです。もちろん、旅館で生まれ育ったご主人にとっては、生まれて初めて迎える、家族だけのお正月です。

お話を伺った「人吉旅館」3代目女将・堀尾里美さん

「災害が起きて2カ月は食欲もなく、味がしなかったんです。でも、動かなきゃいけないから。体を動かすために食べるという感じ。3カ月目ぐらいからかな、美味しいって感じるようになったのは」

こう話しながら、当時のことを少しずつ振り返ってくださいました。

7月4日4時ごろに、けたたましく鳴り響いた携帯のアラート音。この音をキッカケに、平穏な日々が一変してしまいます。

「目が覚めて、周囲を見てもそんなに雨は降っていないし、半信半疑だったんです。ひとまず、身支度を整えて旅館に向かいました」。

自宅2階から眺めた景色は、さほど危機感に迫るものではなかったそうですが、旅館には宿泊客が。もしもに備えての行動だったと言います。

「川沿いにある宿なので、雨が多い時期には、気をつけながら過ごしていたので。その習慣からの行動でした。5時ごろ、ダムの放流の知らせが入って、それが確信に変わり、お客様には身支度と朝食をとっていただきました。6時から6時半ごろだったと思います。それから、避難所の『球磨工業高校』へ移動を開始するのですが、その時には、バケツを一気にひっくり返したようなどしゃ降りに」

一気に状況が変わる中、里美さんの誘導で無事に避難を完了し、ほっとしたのも束の間、後発組のご主人とスタッフがなかなか到着しません。やきもきしながら、里美さんはご主人に連絡し続けたそうです。

「玄関の時計が7時36分で止まっていたんです。主人が旅館を出る7時5分は、水は足首程度だったそうなので、たった30分で一気に増水したということになります」

その後、ご主人は浸水で通れなくなった道を迂回しながら、どうにか避難所へ。10時半ごろには雨も止み、青空も出てきたと言います。

水が引き始めたのは、7月4日の午後。1階天井まで冠水していたため、天井が落ちる被害も

「ニュースを見た全国の方から、ご心配の連絡をいただくのですが、浸水した旅館を見ていないので、実感が湧かなくて…。どうしても見ないといけないと思い、従業員と旅館に行くことにしました」

通れる道を探しながら旅館に向かいますが、膝まで浸水しているため、近づけません。人吉橋の下が歩道橋になっており、どうにか通れそうだ!と歩いて近づいたところ…

「水たまりがあったので飛び越えようとしたら、穴になっていて…。そこに落ちてしまい、頭まで沈んでしまったんです。実は、泳げないので、必死でもがいて、どうにか出ることができました。後で、主人にものすごく怒られましたね」

それでも進み続け、たどり着いた旅館は、映画を観ているのか?と思うほどの状態。流木が流れ込み、畳は盛り上がり、津波でもきたのか?と疑うほど。とても歩けるような状態ではなかったということでした。

「その夜は眠れず、声を殺して泣きました」
涙を浮かべながら、ポツリポツリと言葉を絞り出してくださいました。

床板を外し、足場だけの室内を案内していただきました

 

翌日からは、旅館の片付けの日々が始まります。無事だった自宅2階に暮らしながら、作業着に身を包み、復旧作業が続けられます。

しかしながら、人吉旅館の建物の多くは「国登録有形文化財」。高圧洗浄機も使えず、拭き上げるしかありません。また、残すところ、解体するところ…などをチェックしながら進めるため、作業スピードは必然的に遅くなってしまいます。

昭和9年創業の「人吉旅館」

専門家も入りながらの復旧作業。「残」の張り紙が至るところに貼られています

さらに復旧作業を困難にしたのは「床下」。

「床下が1.5〜2メートルもあるので、社員だけでは終わりが見えませんでした。そこで、高校生の力を借りよう!と思い、『人吉工業高校』に協力をお願いすると、生徒さんたちが授業の一環として手伝っていただくことに。おかげで文化財の建物の泥出しは、3カ月で終わりました。営業が再開したら、一番に彼らに温泉に入ってほしいと思っています」

床下は、昔ながらの基礎のため、どこまでが泥かがわかりにくく、泥出しはひと苦労。それが大人の背丈ほどの深さがあると考えると…想像を絶する作業です
作業を手伝ってくれたボランティアグループと一緒に

 

実は、全ての泥出しが終わったのは12月に入ってから。

「12月10日に温泉を出してみると、泥が混ざったお湯でしたが、12日にはいつものお湯に。トゥルントゥルン、ツルツルのいつものお湯。毎日、この温泉に入るのは当たり前だったから、ありがたいな〜と思って、感動して。涙を流しながら温泉に入りました」

それから温泉には、毎日入っているそうです。
お邪魔した日はとても寒く、湯船にはたっぷりのお湯が注がれ、中庭には流れたお湯が湯気を上げ、温泉宿の佇まいを取り戻しつつありました。

湯気に満ちた浴室。再開に向けて、露天風呂も建設予定ということです

泥出しが完了し、温泉が流れる中庭

 

「復旧作業は優先順位を決めて行い、まずは玄関や大広間、温泉を優先的に進めます。その後、文化財の復元作業にうつっていきます。9月の一部再開を目指して進んでいるところです」。

食欲もなく、カラ元気だった頃から、再開に向けて本気で歩み始めた背景には、たくさんの方々からの支援があったからと、届いたメッセージや支援物資を指差しながら教えてくれました。たくさんの想いが、堀尾さんご夫妻やスタッフのみなさんの背中を押し、「人吉旅館」は豪雨災害からの復興のシンボルとなるべく、歩み続けているのです。

韓国出身の里美さんへ向けハングルで書かれた「がんばれ 人吉旅館」のメッセージも

 

「みなさんの力があって、私は笑顔になれました。人吉旅館は、前よりも素敵な旅館になって復活します。きちんと着物姿で、みなさんをお迎えしますね」。

「人吉旅館」の看板でもある里美さんのキュートな笑顔に会いに行ける日が待ち遠しいです。

2月7日には、「人吉旅館災害復興工事 起工式」も行われ、本格的な工事がスタート。人吉旅館の復興の様子は、「人吉旅館」ホームページでご確認いただけます。

http://www.hitoyoshiryokan.com/

(取材12月29日)
text&ph(一部借用したものです)/今村ゆきこ

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